当地のお祭り集会所には、酒好きが集まる。
皆さん、お酒が好きだなぁ。
昼食の時も隣席の方が「俺は毎日3合は飲んでいる」と威張った感じで話していた。
豪語と言う感じである。
自嘲的なニュアンスはゼロである。
いずれアルコール依存症になうだろう。
否、もうなっているのかもしれない。
さて、午後6時過ぎのお祭り集会所は、すでに出来上がった人たちが、なおも体内のアルコール濃度を上げようとしている。
呂律はかろうじて回っているが、酔っ払った人の喋り方である。
そこへ、男性一人が来られた。
70代くらいで、飲んでいる方たちとは、特に親しいようだ。
幼馴染で、生涯の大半をともに過ごした間柄のようだ。
名字で呼ばす、名前で呼ぶので、何という名前なのか、私にはさっぱりわからない。
その男性は素面である。
ここでは素面さんと呼ぶことにしよう。
「おぉ、座ってまぁ飲めよ」
お友達の男性が紙コップを差し出してビールを勧める。
「いや、最近体の調子が悪くて、30分に一回はトイレに行っているんだよ。頻尿でな」
男性の声はトーンが低い真剣さが感じられる。
「それで医者で検査したんだけれど、原因不明なんだよ」
素面さんの言葉を受けて、お友達の一人が言った。
「そんな暗い話は止めて、まぁ飲めよ」
他の男性も、賛同し酒を勧める。
素面さんは、挨拶がてら最近の体調不良を報告しに来たようだ。
そして、幼馴染たちに何か優しい言葉でもかけてもらえるのでは?とお祭り集会所に来たようだった。
だが、素面さんの心積もりは、打ち砕かれた。
幼馴染のうち一人として、素面さんの体調を心配する人はいなかった。
素面さんの落胆は、傍で見ている私にはハッキリと伝わった。
(古い付き合いだし、わかってもらえるだろう)と思って来てみたけれど、誰もマトモに受け取ってくれない。
酒に酔っているとは言え、あんまりである。
幼馴染たちは、素面さんに酒だけではなく老人会の入会も勧めてきた。
老人会の主要行事は旅行である。
旅行に行って道中のバスの車内で飲酒、現地で飲酒、帰り道で飲酒である。
飲み友達を一人でも多く確保したいのである。
酒を飲む理由付けのための関係のようにも見える。
あぁ、何と薄っぺらい関係であろう。
元気に飲めるうちは楽しく飲むが、そうでなくなったら、心配もしてくれない。
素面さんの声のトーンが悲痛なものになってきた。
孤独を訴える心情が手にとるようにわかる。
しかし、このお祭り集会所で、理解を示しているのは、同じく素面の私だけであろう。
酒に酔うことにより、自らのエゴが顕在意識を占領し、自分が楽しいと感じることのみに反応するようになっている。
彼らに思いやりを期待する方が間違っているようだ。
アルコールはもミュニケーション・ツールとしては有効な部分もあるが、それも僅かものでしかないように思う。
その人のエゴを外部から再認識するためには、飲酒は効果的に機能する。
しかし、エゴの検知はアルコール摂取をしなくとも可能である。
飲酒の意義とは何なんだろうか?
~続く~