不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

結果を見越した努力は不純.

「報われない努力があるとするなら、それはまだ努力とは言わない」

 これは元プロ野球選手の王貞治氏の言葉である。

 この言葉に感動する人がいる一方、反発を覚える人もおられる。

 私は反発し異論がある。

 この言葉が、どの様な文脈で発せられたかにもよるかもしれないが、明らかにこの一文で完結しており、この一文だけをもって論ずることにする。

 この王氏の言葉は間違っている。

 「報われない努力」という考え方からして誤りである。

 努力の前提条件としての望ましい結果、果報を想定している。

 果報前提の行為は、人を下方に引きずり落とす力を持っている。

 打算が、その行為と人を汚すのである。

 この下方に働く力は人知を超えている。

 地面に打ち付けられ人の精神を破壊する。

 この力に人は抗することはできない。

 人を蝕み成長を止めてしまう。

 だが、当人はそれには気が付かない。

 地面に叩きつけられているにも関わらず、である。

 果報を得て有頂天になっているため理解力が機能しないか、最初から理解力が乏しいからである。

 結果を見越した努力は不純なのだ。