不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

南天と無知な私

 今年最後の回覧板をお隣に持って行った。
 お隣のおばさんは玄関の掃除をしておられた。
 そして、近況の話や世間話になった。
 世間話といっても、それほど大した話ではなく、
風邪をひかないようにするには、どうしたら良い
のか、といった内容である。
 私は口先が達者なので、人によっては私のこと
をとても頭が良い奴だ、と思い込んでいる人もい
る。
 私は、1歳になる前から赤ちゃん言葉ではなく
普通に話していた。歩けるようになる前に喋って
いた。
 かなり驚いていた人もいたようだ。
 それを知っているご近所さんのなかには、なお
さら頭が良いと思っている人がいる。
 
「そうそう、私○○ちゃんにねだりたいものがあ
るわ」
 ○○ちゃんとは私のことである。
 何ですか?と尋ねると、おばさんは我が家の庭
先にある南天が少し欲しいのだそうだ。
 え~?うちに南天なんてあったけ?
 おばさんは我が家の庭先に移動し、庭の隅にあ
る子供の背丈ほどの木を指差した。
「ほら、この南天、いい色になってる」
 へ~、これが南天か。
 私は、こういったごく基本的な常識的なことも
知らないのである。世間で言うところの無知であ
る。
「ちょっと、もらっていい?」とおばさんは言っ
た。
 どうぞ、好きなだけ持って行って下さい。 

 私は、その木が南天とは知らなかったし、その
木の存在そのものにも気がついていなかった。
 ひょっとしたら、我が家の前を通る人の中には
この南天気づいていた人も少なからずいたと思わ
れるが、その家の住人である私は南天の木そのも
のを知らなかったのである。
 
 ある人にとっては、価値が見出せない、あるい
は気にも留めていなかった物事が、別の人には立
派な価値や意味があったりするものである。
 物事は多角的に検証してみないと、その実態は
掴めないものであるとは思うが、それが自分の身
辺における物事であると、どうしても思い込みが
優先してしまう。
 
 私も、思い込みを廃し、より客観的な視点を持
ちたいとは思うのだが、これは難しいことである。
 主観の持つ強烈さは私自身の視野を狭くしても
平気なままである。
 愚かさは技量によって克服されうるものではな
く、何をどう見るかに係っているのである。