矢沢永吉さんは、1981年に単身渡米した。
レコード会社やプロダクション等を引き連れることなく、文字通りの単身での行為だった。
米国にコネクションがあったわけではなかった。
お膳立てはゼロである。
自分で開拓していった。
矢沢さん自身がその道を選んだのだ。
日本ではスーパースターであっても、米国では無名の歌手でしかなかった。
頼るものは何も無い。
そこから自分の世界を広げていった。
その過程に何が起こったのか?
ただただ、ぶつかっていったのか?
矢沢さんは自力で人脈を築いていった。
つばが飛び散るあの熱い喋りで接していったのであろう。
そして、多くのトップミュージシャンと友人関係となり共演を開始した。
ドゥービー・ブラザーズやリトル・フィートのメンバーがアルバムやライブに参加しプロデュースを担当した。
これには日本の音楽業界は仰天した。
私も驚いた。
と言うか信じられなかった。
当時、私はロック少年だった。
ドゥービー・ブラザーズは最も好きなバンドの一つである。
そのメンバーと共演するなんて、あり得ない。
どうやって、そんな豪華なコネクションを作っていったのか?
プライドが高い彼等は札束で動くようなことはないし、そもそも彼等は既にリッチマンたちである。
私の弱い頭で想像しても何も浮かばない。
本来であれば、ほぼ不可能な話なのだ。
それを矢沢さんは実現させた。
矢沢永吉、恐るべし。