昨日の記事のNZさんは、認知症で当市に一人住まいされている。
ご子息はいずれも遠方に住んでいて、行事などの際に帰省されているようだ。
ご子息は、いずれもとても優秀で、一人は旧財閥系のグループ企業で、まあ誰でも知っているような会社の常務、一人は旧帝大系の大学助教授である。
NZさんは、ご子息たちの出世が嬉しいのか、人に言いたくてたまらない。
会うたびに「うちの息子がこんど常務になって・・・」という話をされる。
聞かされる私たちは「もう何度も聞いています」と喉元まで出かかっているが、そこは大人の配慮でグッと押し留め、「そうですか。よかったですね」聞いている。
NZさんは、どうやら自分がいつも話しているという自覚がないようだ。
自分が何を話したかほとんど覚えていないようだ。
同じ話を、さも初めて紹介するかのように話し始める。
一日に一回すればそれで終わりであるが、次回顔を合わせた際には、また同じことを同じテンションで話す。
(あぁ、腕の良い漫才師みたいだな)と私は思って聞いている。
漫才師は何千回、何万回と披露してきた漫才ネタを、常に新鮮に演じている。
漫才のセリフを今初めて知った、聞いたかのように相方に話す。
これはかなりの技量がないとできないことである。
NZさんは、それと形の上では同じである。
だが、NZさんは演技でそれをしているわけではない。
自慢したい内容は覚えていても、それを以前にも話したという事実は、すっかり忘れてしまっている。
認知症は、なかなか手ごわい。
これは、これで面白い、と思えれば良いが、それは私が他人だからであろう。
身内であれば、とんでもなく厄介である。
それなのに、NZさんのご子息は、母親を一人で暮らさせている。
普通は誰かが引き取る等、何らかの処置をするだろう。
それを放って置かれている。
(それで良いのかぁ?)と周囲の皆は感じているが、いわゆる他人なので何も言えないでいる。
~続く~