家に着いた。
例年なら続いて家の近くの場所の雑草処理に取り掛かるのが恒例である。
だが、私はその作業をすっかり忘れてしまっていた。
気がついたのは翌日である。
おそらく懸案だった場所の雑草があまりにも少なかったため、気分的に舞い上がっていたためであろう。
嬉しいと同時にとても意外な気がして内心動揺していたのだろう。
私は翌々日にその場所の雑草処理に取り掛かることにした。
まず、下見をする。
家から至近距離なので、すぐに見に行ける。
さて、こちらはどうなっているのか?
昨年は、こちらも雑草が生えまくり、私の胸の当たりまでの高さまで生えていた。
やはり灌木化した雑草も2~3本あった。
手で引っこ抜こうにも抜けなかった。
仕方がないので除草剤をたっぷり散布しておいた。
行って見てみる。
あれ?
ことらも雑草が少ないな。
ゼロではないが、申し訳程度に生えているだけだ。
灌木化した雑草が一本だけ生き残っていた。
私は家に戻り、除草剤の希釈液を作る。
あの程度の雑草なら500ccもあれば十分だろう。
私は現場に戻った。
私は生き残りの灌木を手で引っこ抜いた。
抜けた。
今年の灌木化雑草は手で抜ける程度の強さしかないようだ。
私は除草剤を散布を始めた。
その作業もすぐに終わることが出来た。
液はたくさん残った。
おぉ、こんな年は初めてだ。
これも、各種寺社で「雑草が生えませんように」と祈っていたお陰なのか?
「そんなの偶然だよ」という意見もあろう。
だが、隣接する場所では例年通りの勢いで雑草は生えているのだ。
う~ん、不思議だ。
私は、これは祈りが通じたと受け取ることにした。
いずれにせよ、これは有り難いことであるが、実際に起こると幾分動揺してしまう。
単純に「ラッキー!」と喜ぶだけではない。
これが畏れというものなのか?
私としては、これが来年以降も続いてくれると嬉しいのだが、来年のことは神のみぞ知る、であろう。