ハービー・ハンコックはドナルド・バードのバンド
に加入後、すぐに頭角をあらわし評判を浴び始めた。
自身のリーダー作は、どれも聞きどころがあり、
バードのバンドのピアニストとしても絶妙な演奏を
繰り広げていたからである。
ジャズ界では「マイルス・デイビスがハンコックに
目をつけている」「マイルスを自分のバンドに勧誘
するのではないか」と噂が流れ始めた。
火のないところになんとやらで、マイルス本人が
そう口にしたのだろう。
その話はバードとハンコックの耳にも入ることとな
った。
だが、これは引き抜き話である。
バードはハンコックを呼び寄せてこう言った。
「いいか、もしマイルスが本当に電話してきたら、
『今は誰ともやっていない』って言いなさい。マイルス
が来いと言ったらすぐに行くんだ。それが君のためだ
からだ。マイルスにはパワーがある。君の足はひっぱ
りたくないんだ。俺の事は気にするな」
バードは引き抜きに憤ることもなくハンコックを思い
やる言葉をかけた。
そして引き止めるどころか快く送り出したのだった。
バードとマイルスは同じトランペット奏者であり、同時
代のライバルといえる。
その相手に自分が発掘した気鋭の新人を持って行か
れるのである。
普通だったら怒りそうなものだが、バードは逆だった。
ドナルド・バードとは器の大きい男だったのだ。
バードの音楽にある温かさは、彼の人柄を反映してい
るからであろう。
私が最も好きなジャズ・トランペット奏者・ドナルド・バ
ードは、そういう人だったのだ。