不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

高橋尚子という走る教祖様。

 名古屋国際女子マラソンで注目を集めながら
も良い結果を残せなかった高橋尚子選手だが、
彼女に対する人々の支持が驚くほど大きいこと
に私は滑稽なものを感じてしまう。
 群集は高橋選手を「Qちゃん」と呼ぶ。
 40近い女性に対してちゃん付けとは、おかし
いとは思わないのだろうか?
 中年過ぎてチャン付けで呼んでも不自然では
ないのはアグネス・チャンぐらいのものである。

 高橋選手はレース前に「あきらめなければ夢
はかなうというメッセージを伝えたい。伝えら
れるのは優勝者だけ」と語っていた。
 あきらめなければ夢はかなうというメッセー
ジを伝えたい、ですか。
 何だか安手の新興宗教の教祖様のようなこと
を言っている。
 彼女は、あきらめることの意義ということを
あの年齢になっても理解していないようである。
 何でもかんでもしがみつけば良いというもの
ではない。
 物事は移ろい変化していく。
 永遠なものなどこの世には存在しない。
 その現実を直視せず、あきらめなければ夢は
かなう、などという夢見心地なことをメディア
に向かって話す高橋選手は、おそらく幼稚な内
面を持ったままで年をとってきてしまったのだ
と思う。
 どれほど走って体を鍛えても、人の内面は決
して成熟することはないのである。
 走って成熟するのなら、犬は今頃哲学者であ
る。
 追い続けてきた夢をあきらめることによって、
新たな道が開けてくる、ということを彼女は未
だ受け入れられないようである。

 マラソンのゴールとなった陸上競技場では、
高橋選手を多くの観衆が熱狂と共に迎えた。
 教祖様に信者が群れるのは古今東西に共通し
たことである。
 哀れな信者は走る教祖様に欺かれている、と
いうことにも気付かず、声援を送る。
 教祖様と信者は共に空ろな夢を見続けたいの
である。
 
 人はいつか夢から覚めなければならないのだ
が、夢の心地よさから抜け出せない人が実に多
いということを、私は今回の女子マラソンで確
認することができた。