不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

裁判員制度と日本の国民性。

 裁判員に選出されても、裁判員にはなりた
くない人が半数以上いるそうだ。
 いきなり「あなたを裁判員に選出します」
と連絡されたとして「はい、承ります」と言
える人は少数派だと思う。
 町内会の役員にだってなりたくないのに、
裁判員なんてとんでもない。
 まして、いろいろと法律の縛りが発生する
となると身構えたとしても当然である。
 それに、人には向き不向きがある。
 司法は、他の職種とは異なる。
 職種としては極めて特殊な世界である。
 多くの人間は未知のものに対しては、基本
的に拒否反応を起こすものである。
 司法なんて訳がわからないものは嫌だ、と
感じてしまうことだろう。
 この裁判員制度は、米国の陪審員制度を参
考にして作られたものであることは明らかで
ある。
 だが、日本と米国では国として成り立ちが
違う。
 国民が背負ってきた歴史が違う。
 米国は元から民主主義の国であり、日本は
その米国の黒船によってまず武家社会が取り
払われることから近代社会が始まったのであ
る。
 そして戦後、やはり米国により民主主義を
本格的に教わることになった。
 それまでの日本人には、裁きはお上がする
ものである、という価値観が一貫して受け継
がれてきた。
 裁きを有難く押し頂く、というのが日本の
伝統なのである。
 これは卑弥呼の時代から大岡越前の時代を
通過し今日まで続いている。
 皆で話しあって公平に裁こう、などという
米国的な思考回路が日本人にはもとより無い
のである。
 国民性に無いものを、いきなり「さぁ裁判
員制度が始まりました」などとCM等を使って
告知しても浸透するものではないと思う。
 役人というのは市場を見て判断するという
感性を持たない未開な種族である。
 そのため国民の多くが、裁判員制度をどの
ように感じ、行動するかを察することが出来
ないでいる。
 嫌な人に司法の任務を無理に押し付けても
よろしくは無い。
 そこで私はいくつか案を思いついたので、
明日から書いていこうと思う。