昨日、いつもの集いに行った。
この日は常連のTZMさんが診察、NZさんは家の用事で欠席だった。
この集いでは、清書のその日に決められた節を輪読し、それについて墨子が出席者に質問する。
出席者は、それに答え、墨子が解説を加えるという形式になっている。
墨子が問いを発し、出席者はできるだけ正しい答えで応じようとする。
この時点で、墨子が完全に上位に位置する。
常に正答が求められているというわけではないが、間違いを言いたくない、という心情を持つのが人の常である。
忖度された回答が出やすくなる。
だが、私は新都ではない。
そうした忖度をするつもりはない。
この日の墨子の質問に「そういう答え方は新都はしないだろうな」という答えを並べた。
その内容が、✝️的ではない。
だが、いずれも筋は通っている。
墨子は、困っているようだった。
墨子は、言い負かされてばかりで終わりたくない様子で、次々に質問してくる。
私は、それに非✝️的な応答をする。
主に仏教的な観点からの意見である。
あぁ、私はへそ曲がりである。
周りの空気を読んでいれば、そうした対応はとらないだろう。
しかし、私にはそれができない(苦笑)
墨子は最後に「承っておきます」と言って私への質問を終えた。
(もう少し、大人にならないとなぁ)とは思う。
だが、いい年になっても私は青い。
青すぎるのだ。