不二家憩希のブログ

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エンジニア・ロジャー・ニコルス氏、ご逝去。その⑩

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 ソ連政府は長らく欧米のポップミュージック
を締め出していた。
 当時のソ連では欧米のポップミュージックに
は害がある、とされていた。
 社会主義の考え方では、欧米のポップミュ
ージックは資本主義の権化のように映ったの
だろう。
 そのため欧米のミュージシャンがソ連国内で
公演することなど考えられなかった。
 公演を実現しようとするためには、政府レベル
での交渉が必要とされたのだ。
 ジョン・デンバーソ連で公演をしようと思い
立ったようだ。
 だが、アメリカ政府とソ連政府の間には、どの
ような文化協定も存在しなかった。
 ジョン・デンバーソ連政府と2年間の交渉の
末、ソ連で演奏をする機会を得ることになった。
 しかしそれは、一種のオーディションのようなも
のだった。
 観衆は政府の役人たちだった。
 役人たちが聴いてみて、公演許可の成否を決
するのだ。
 1984年デンバーは、友人でもあるエンジニア
のロジャー・ニコルスらと共にソ連に行った。
 公演の模様を録音するためである。
 この時の録音がロシア史上初のデジタル録音で
ある。
 公演場所はモスクワ、レニングラード、タリンの
ごく小さなホールだった。
 デンバーは、ソ連の役人たちを前に歌と演奏を
披露した。
 伴奏はデンバーが弾くギターだけの完全なソロ
パフォーマンスだった。
 デンバーの歌と演奏は感銘を与えた。
 驚いたことにソ連の役人たちは、デンバーの歌を
英語で口ずさんでいた。
 ニコルルスによれば「彼らは英語が話せないにも
かかわらず」である。
 役人たちはデンバーの歌を知っていたのだ。
 彼らも隠れて聴いていたに違いなかった。
 こうしてデンバーは、ソ連で公演した初の欧米の
ミュージシャンとなった。
 そしてソ連アメリカとの間には新たな文化協定
が結ばれることとなった。
 デンバーソ連での欧米のミュージシャンの公演
の道を開いたのだった。
 有名な1987年のビリー・ジョエルソ連公演に
至る前には、こうした逸話があったである。
 ジョン・デンバーの音楽には、普遍的なものがある。
 自然を背景にし素朴で純粋なその音楽は、頭の固
ソ連の役人たちにも訴えるものがあったのだろう。
 この映像はその時の模様を記録したものである。
 ソ連の人たちの、デンバーへの親愛の情が窺
える映像だと思う。
 そして何よりデンバーの歌と演奏が素晴らしい。
 
  ~続く~