不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

日本の禅寺で修行する欧米人をテレビで観て

  先日NHKの「ホリデーにっぽん」という番組を見た。
 「禅 生きる支えを求めて~外国人修行僧たちの日々
~」という内容だった。
 岡山の曹源寺という臨済宗の禅寺で20人ほどの欧
米人が修行をしている。
 番組では、その欧米人の修行僧たちの修行の日々を
約一月ほど追ったものであった。

 一部の欧米人の間では、禅は特別な位置をを占めて
いて、禅の持つステイタスは日本よりも高いほどであ
る。
 キリスト教世界で、仏教、しかも禅となると何か際
立った価値があるかのように感じてしまうらしい。
 欧米において、欧米人でありながら禅を研究してい
る、とか言うと、わぁーインテリ、と思われるそうだ。
 従って欧米では、禅=インテリという式が成立する
のだ。
 人間は、洋の東西を問わずエキゾチックなものに弱
い。
 また、その聖地や修行所が現住地から遠いところに
あればあるほど、その地の持つ神聖さは増していくも
のである。

 番組に登場した欧米人修行僧は、わざわざ来日し頭
も剃っており、食事も魚肉の無い禅寺の食事をとって
いる。日本人修行僧と同様の修行をしていた。
 私が感心したのは、ここの修行僧は週に3回、町を
托鉢して回っている、という点である。
 現代の日本の仏教僧で、定期的に托鉢をしている僧
が全国でどれだけいるだろうか?
 私は、仏教僧に托鉢は必須事項だと考えているが、
そんな基本的なことも現代日本の仏教界は無視してし
まっている。
 また神道神職キリスト教の教会関係者にしても、
如何に効率的にお金を集められるかということに頭を
絞っているだけである。
 宗教が娯楽もしくは経済行為に組み込まれてしまう
と、その宗教は一気に堕落してしまうのである。

 欧米人で実際に日本で修行したい、と考えて来日し
たものの、欧米人を受け入れてくれる寺が現実には皆
無なのを知り、落胆して帰国する人が多いと聞いてい
た。
 岡山の曹源寺は、そういった欧米人の夢を叶えてい
ると言う点で、大いに評価されても良いと思う。

 日本人は、仏教や禅といったものは珍しくもなんと
も無いありふれた存在なので有難みを感じていない。

 人間は、近くにあるものには価値を見出せない。
 逆に、遠くにあるものは、価値があるものと思い込む。
 日常的なものには価値を感じられないのに、非日常
的なものには、大いに惹き付けられるのである。
 その対象を手に入れたり接するまでに、何らかの刺
激が無いと、人は退屈してしまうのだ。
 人は、その刺激込みでその物事の価値を測っている
のである。
 私達人間の凡庸さは、こんなところでも良く理解で
きる。