不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

「4回目打った?」

 ある集いに出た。

 雑談の時間となった。

 話題の初めは、やはり新型コロナであった。

 口火を切ったのは集いのリーダー格の男性である。

 「○○君、4回目打った?」

 自分は4回目の接種完了済みという口ぶりである。

 問われた男性が答えた。

 「僕は前に帯状疱疹になってブランクがあって、ちょっと遅れています。だから、まだ3回目です」

 うわぁ~!

 何という会話だぁ。

 ワクチン接種は常識、当然のことだと信じ切っている。

 帯状疱疹罹患の理由が、ワクチン接種にあるとは、微塵も考えていないようだ。

 「ワクチン接種により免疫が大幅に低下していて、従来なら高齢者の病気だった帯状疱疹が大幅に低年齢化している」とか教えても理解できないだろうな。

 私は黙って聞いている。

 自分が未接種だとは自分からは表明しない。

 マスクをして大人しく聞いている。

 目立たないようにしている。

 おそらく私も当然接種していると思っているであろう。

 実は、そうじゃないんですよねぇ~。

 

 

 

 

 

推論頼みの言語。

 

   日本には○○の日がたくさんある理由についての記事である。

  この記事の中で私の興味を引いた部分があったので抜粋して記す。

 

言語学者の長島平洋は、1999年に「日本笑い学会」に寄せた論文のなかで、日本語には奈良時代(710-794)、万葉集の頃からダジャレが存在していたと述べている。

日本語は、音声上の最小単位である音素の数が比較的少なく、ダジャレをつくりやすい。長島によれば、日本語ではたった111の音素から、45万語以上が生まれているという。その結果、同音異義語の数が多くなり、言葉遊びのきっかけがますます増えていくのだ。

また、日本語はきわめて推論頼みの言語でもあり、書き手が簡潔に情報を伝達する能力と、読み手が正しい意味を推論する能力の両方に重きが置かれる。食べ物にまつわる記念日の多くがその日付に由来すると知らなければ、「○○の日」はただの謎になってしまうだろう。言語学者のR・アラン・ブラウンは、かつてこう記した。

「日本語には、すでに共有されている情報や文脈からわかる情報を、わざわざ表現せずに省略する傾向が強く見られる」 引用ここまで

 

 なるほどぉ。

 考えてみたこともなかった。

 >日本語ではたった111の音素から、45万語以上が生まれているという。その結果、同音異義語の数が多くなり、言葉遊びのきっかけがますます増えていくのだ。

 同じ音なのにまるで違う言葉、言い回しはたくさんある。

 気、木、黄、器等などすぐに思いつく。

 >日本語はきわめてでもあり、書き手が簡潔に情報を伝達する能力と、読み手が正しい意味を推論する能力の両方に重きが置かれる。

 主語が略されることが普通なのは、言語としては珍しい。

 その他にも様々な部分を省いた上で読者に推論を強要し、読者もそれを普通のこととして読んでいく。

 忖度という文化を生んだ国の言語の特徴と言えるだろう。

 

 

 

入って来るハチ。

 わが家にはハチがよく入っ来る。

 ほぼ毎日である。

 入って来てはブンブンと飛び回っている。

 面倒なのでその都度対処しない。

 ハチは入っては来たものの、アホみたいな冴えない男が一人いるだけで、他には目ぼしいものは何も無い。

 居てもしょうがないので、次は出て行こうとする。

 入っては来たものの出方がわからない。

 それで飛び回って出口を探している。

 そのうち窓際辺りを飛ぶようになる。

 そうなってやっと私は手を貸す。

 窓を開け出ていくように促す。

 開けてすぐに出ていけば良いのだが、まずそうはならない。

 外からの風に押し戻されたり、窓ガラスにぶつかったり、私から逃げようとして室内をまた飛び回ったりしている。

 そうこうしているうちに、やっと脱出に成功する。

 「あぁやっと自由の身だ!」と言いたげに一目散に飛び去って行く。

 元気いっぱいである。

 「そんなに嫌だったら最初から入って来るな!」と言いたいところである(笑)