良寛さん、18で家を出て22で僧に…伝記記述
この伝記が書かれたことは知られているが、原本が見つかっていないため、記載内容が正確にわかる写本の発見は、良寛ファンや研究者らの間で話題を呼びそうだ。
禅師伝は506字から成る漢文で、旧月潟村(新潟市南区)の儒者・大関文仲が書いたとされる。大関は良寛の弟などと親しかったが、良寛本人と面識があったかは不明だという。冨沢さんは「良寛は存命中から、詩人や書家として有名だったのだろう」とみる。
禅師伝には、良寛が僧になった経緯が詳しい。20歳になる前に「出家」したとあり、「禅の修行をした後に僧になった」とも書かれている。
これまでは出家を「しゅっけ」と読み、「僧になること」と同じ意味でとらえることが多かった。しかし、冨沢さんは、「出家」と「為僧(僧になる)」が書き分けられていることに着目。「出家は、単に家を出るの意味だろう」とみる。そうすると、家を出てから修行を積み、僧になったという時間差とつじつまが合う。その他の史料なども合わせ、良寛は18歳で家を出て、22歳で僧になったとみる。
禅師伝では「良寛が僧になって40年余りがたった」としており、これにより、禅師伝は1819年以降に書かれたことが分かる。
大関は伝記を出版するつもりだったようだが、実現しなかった。良寛は伝記を見せられた後、大関に手紙を送り、「野僧元より数ならぬ身に候」「御ゆるしたまはり 度 (たく ) 候」と出版を断っている。名誉欲のない良寛にとって、出版は迷惑だったとみられる。
今回、冨沢さんが発見した写本は、新発田藩出身の漢学者・ 丹羽思亭 (にわしてい ) の備忘録「随得随録」。冨沢さんによると、大正時代の詩歌研究書に、「随得随録」に禅師伝が写し書きされているとの記述があるが、その後「随得随録」は所在不明となっていたという。冨沢さんはそれを、新発田市立図書館の史料の中から、別の研究の過程で偶然発見。丹羽思亭が禅師伝を写したのは、随得随録の前後の文章などから判断して、1845年頃とみられるという。
(2010年9月15日17時30分 読売新聞)
上記の記事を見つけた。
読売新聞は時間が経つとウェブ上から記事を
消去してしまうことが多い。
せっかくの記事なのにもったいないので今回
ここに転写させて頂くことにした。
出来ることなら読売新聞も朝日新聞などのよ
うにブログ転用サービスを始めてもらうとありが
たいところである。