不二家憩希のブログ

はてなブログに引っ越してきました。

ヒヨドリと雑草と希少性

 朝、一羽のヒヨドリが、庭先を突付いているのを見つけた。
 そこは、私が昨年の秋に花の種を蒔いておいた場所である。
 道理でいつまでたっても芽が出ないわけだ。
「このー、今度捕まえて焼き鳥にしてくれる!」

 そこは花壇と言うほどのものではなく、ただ、土がそこに露
出している、というだけの場所である。
 土以外の場所は、青い砂利で、以前は父の車を置いていたの
だ。昨年父が急死し、空いたスペースに花の種を蒔いてみよう
というわけである。
 砂利の合間の土である。これは、ある意味、貴重な空間であ
る。綺麗に整地すれば良かろうとお思いかもしれないが、とり
あえず現状はそのままである。
 ヒヨドリは、私が種を蒔いていたのをどこかで見ていたのだ
ろうか?
 それとも、野生の勘で分かるのか?
 これが、食物を求める自然の本能と言うものなのか。
 自然よ、汝は侮りがたし。

 その砂利ばかりのこの庭にも、僅かな隙間に雑草が生えてい
る。
 だが、私には、どれが雑草なのか、そうでないのか判別出来
ないでいる。
 昨年、急死した母が、砂利の隙間の土の部分に、花の種を蒔
いていたからである。父はそれを雑草と間違って、せっかく生
えてきた花の芽を摘んでしまったことも、度々ある。
 さて、雑草と花との区別はどうするか?
 私は、花が咲いたらそれは花、咲かなかったら雑草、という
ことにした。他の判断基準は、私には思い浮かばなかった。

 雑草と言う植物はありません、と昭和天皇はおっしゃったそ
うであるが、私はそんなことを言ってもいられない。

 思えば、ヒヨドリも数が多いので、害鳥とか庭のギャングと
か呼ばれるが、数が少なかったら、どうなるか。
 トキのように、貴重種として大事にされるだろう。
 雑草も、いくらでもあるから大切にはされない。これが絶滅
危惧種にでもなれば、誰も雑草とは言わないだろう。
 
 希少性に価値を見出すのは、人間の凡庸さを如実に示してい
る。
 それが、モノであれ、生き物であれ、血統であれ、少なけれ
ば崇め奉る。
 希少性は、そんなにありがたい事なのだろうか?
 だが、人間は他人の真似をしたがり、影響を受けたがってい
る。他人の考えで自分を埋めようとしている。そして、多数派
の方になびいてしまって、自らの価値を貶めている。
 餌を求めるヒヨドリの様に。